牡丹の咲く頃

陣痛から出産までを共にして 中日友好医院にて

投稿日時:2009/04/25(土) 20:25

中日友好医院国際部
中日友好医院国際部

2009年4月19日(日)22:50、小さな生命が誕生しました。以下が陣痛の始まりから出産までの記録です。

4月17日(金)

  • 3:00 妻がお腹が痛くなってきたと起きる。
  • 10:00 病院到着。検査の結果、もうすぐ本格的に陣痛が始まるので入院することになる。

当初は一人部屋の病室に入ろうと計画していたがベッドがないと言われ、結局6人部屋に入ることになる。1人部屋と比べて費用はずっと安いのだが環境は最悪で、付き添いの家族や生まれたての子供などで病室はごったがえし、夜も眠れないという状態だった。

4月18日(土)

  • 21:00 本格的に陣痛が始まる。

4月19日(日)

  • 5:00 痛みが次第に増すとともに陣痛が規則正しくなってきた。特に腰が痛くなってきた模様。子宮口の開きを検査したところ徐々に開かれてきているがまだ十分ではないとの診断。
  • 12:00 4~6分に一度の割合で陣痛が来るようになる。検査をしてもらったところ子宮口は朝よりも開いてきており午後には出産できるのでは、と医者に言われる。
  • 14:00 4分に一度の割合で陣痛が来るようになる。痛みは相当なレベルに達しており陣痛が来るたびに妻は平静でいられなくなる程。私や妻の両親、弟も腰をマッサージするか手を握るか、声を掛けることしかできない。検査はしてもらったが子宮口がまだのよう。
  • 15:00 痛みがさらに激しくなる。看護婦を呼び出産室へ運んでもらったが、やはり子宮口の開きが十分でない、との理由ですぐに出てきた。看護婦からは廊下を歩いて運動すれば早く子宮口が開くはず、と言われ、それからおよそ1時間、妻と私は病院の廊下を早足で歩いた。
  • 16:00 運動の効果はなし。その後さらに陣痛が激しくなり、ついには嘔吐。昼に摂った食事もすべて出てしまい、水すらも受け付けなくなってしまった。この間、子宮口の検査をしたがまだNoの状態であった。
  • 17:00 陣痛は規則正しく来ている、もう3分に1度の割合で。しかし子宮口が一向に開かず、子供の頭が降りてこない。目の前では妻が苦しんでいる。いてもたってもらいられず、病室を飛び出し看護婦を呼んだ。
  • 18:00 看護婦が女医を連れてきて検査をする。陣痛は規則正しいのに子供は一向に降りてくる気配はない。が、このままの状態を維持すれば子供は自然分娩で出産が可能なはずだ。というのが医師としての見解だった。しかし妻は入院してから環境の悪さと陣痛の痛みもあり、3日間ほとんど寝ておらず、また嘔吐の症状も出ているので、体力はすでに限界に達していた。私を含む家族としては帝王切開を望んだ。しかし、医師はこれには同意しなかった。帝王切開は最終手段であるのでそれはまず考えないが、万が一のことを考え準備はする、ということで採血し血液検査をした。
  • 20:00 医師との話し合いで、陣痛は規則的に来ているので自然分娩は可能だと判断はできるが、体力の問題もあるので2時間待っても変化がないようなら帝王切開に踏み切る、ということで合意。その場に居合わせた私、妻の両親、妻の友人の4人で妻を分娩室まで見送った。
  • 22:10 妻が分娩室から出てくる。2時間何も変化がなかったので、そのまま上の階の手術センターへ直行。麻酔を使うには家族の同意が必要なので、私が同意書にサインし、その後妻は手術室に運ばれていった。私は妻の両親と妻の友人と共に手術の成功を祈りながら待った。
  • 23:05 手術室から看護士が小さな小さな小さな子供を抱いて出てきた。「母子共に健康です」との看護士の言葉に安堵。
  • 23:20 妻が手術室から出てきた。もう何と言いますか、感動しました。

手術室から出てきた妻
手術室から出てきた妻

陣痛に耐えるというのは想像以上に苦しいもの(個人差はあるとは思いますが)で、妻が一番苦しかったのでしょうが、私を含む家族も苦しいものがありました。妻を分娩室まで見送った後、私は母と泣きながらお互いに励ましあいましたが、それを妻に話すと「その時私は笑っていたのよ、やっと楽になれるのかと思って」と言っていた。母偉大なり。。

術後、病室のベッドに戻ってきた妻と妻の友人とでこんなやりとりがあった。
友人「麻酔打ったでしょ?あれって痛くなかったの?」
妻「陣痛のあの痛みに比べれば何も痛くも痒くもない。麻酔は打たれたけど、その時すでに感覚が麻痺していて痛くも何もなかった。」

陣痛の痛みって相当なもの。ベッドをのた打ち回りながら耐える妻は本当に痛々しくありました。分娩室に入った後は、痛みに耐えるために自分自身の手をかんだりしていて、それが相当な力でかんでいたらしく未だに痕が消えず、その傷を見るたびにあの時の妻の壮絶な「生命の誕生」という格闘を思い起こさせられます。

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